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ありがとうございます。

 投稿者:今川五郎  投稿日:2016年10月14日(金)06時21分57秒
  山紹様、お久しぶりです。お答えありがとうございます。
質問させていただいたのにお礼が遅れて申し訳ありません。
年表もブログもお元気でいらっしゃるかな、と思いつつ時々見ておりましたので、
お返事をいただけて喜んでおります。

今川家に関する歴史年表は永久保存ものだと思っております。
今後ともよろしくお願いいたします。
 
 

中世資料編補遺と本興寺

 投稿者:山紹  投稿日:2016年 9月 5日(月)23時05分2秒
  今川五郎様、お久しぶりです。 書き込みありがとうございます。
「静岡県史中世資料編補遺」に関しては、「静岡県史資料編8中世四付録」の「中世資料編補遺」を短縮して書いてしまっていました。
分かりにくく申し訳ありませんでした。
今では「戦国遺文今川氏編第3巻」のNo1980を、見られた方が楽かと思います。

鷲津の本興寺と鵜殿氏との関係は、本興寺に関する本によれば、
鵜殿氏が文明3年に五世日暹に帰依したことから始まったとあります。
又、冠賢一先生が、「戦国期日蓮教団の展開 -遠州鷲津本興寺と鵜殿氏-」で詳しく書かれています。
ネットで検索すると読むこともできます。

ここ長らく年表やブログを更新していないにも関わらず
見ていただいているようでありがとうございます。
 

『静岡県史中世資料編補遺』について

 投稿者:今川五郎  投稿日:2016年 9月 3日(土)08時25分1秒
  山紹様、お久しぶりです。以前ブログでお田鶴の方の出自について質問した者です。お元気ですか。山紹様の年表やブログは素晴らしいと常々思っております。
年表に出てくる永禄七年三月三十日の飯尾連龍の釈明部分を読みたいと思い、『静岡県史中世資料編補遺』を見たくて探したのですが、見つけられません。
タイトルが微妙に違うのでしょうか、それとも別なタイトルの本の所収の史料なのかご教示いただけないでしょうか。
もう一つ質問があります。お田鶴の方の実家鵜殿氏は三河が本拠と思いますが、静岡県磐田市の本興寺とゆかりが深いのはなぜか、ご存知でしたらご教示いただけないでしょうか。
度々のあつかましいお願いで恐縮ですが、よろしくお願い申し上げます。
 

駿河志料

 投稿者:山紹  投稿日:2016年 8月28日(日)10時15分57秒
  Sawamasa様 書き込みありがとうございます。
県立図書館での確認作業をしているとのこと、そのご熱意に感心いたしました。

沢木氏に関しては、駿河志料(一)P784に記載されていることを確認しました。
「大日本史料第十編の三正親町天皇」を見ると、「武徳編年集成」が元の史料なのかなと考えます。

「駿府城の戦い」に関して武田軍は7日には活動しているとの記載を確認しました。
書き直そうと思います。ありがとうございました。
 

今川氏真の近習について

 投稿者:Sawamasa  投稿日:2016年 8月20日(土)09時06分2秒
  山紹様 昨日、県立図書館に出向いて教えて頂いた「嶽南史」と「駿河史料」を確認してきました。確かに「嶽南史」第3巻(211頁)に該当する記載がありました。ただし、本書では12月7日の項目になっています。この違いはよく分かりませんが、「駿府城の戦い」の始まりと終わりの違いでしょうか。「静岡県史 史料編中世三 3513号」では13日の項目に入っています。
次に「駿河史料」ですが、「嶽南史」の確認に思ったより時間が取られて十分な確認ができず、結局、該当する記事を見つけることはできませんでした。第4巻の巻末の歴史年表には記載がないことは確認しました。
昨日の調査の結果を報告しておきます。
 

ご返事が遅れました

 投稿者:山紹  投稿日:2016年 7月31日(日)22時42分49秒
  Sawamasa様、河東村出身者様、
投稿していただいたことに気付かず、返事が大変遅れてしまって申し訳ありませんでした。

Sawamasa様、私は当初、出典を載せず年表を書いておりました。
その記載が未だに年表上に残っております。
Sawamasa様がご質問の、記載史料に関した「掛川の古城址」の箇所は、中与左衛門に関するのみの史料となります。
そして、上段の沢木氏に関する史料は、昔「嶽南史」か「駿河志料」を元に記載したと記憶しております。
年表が分かりづらい書き方をしてしまっていること、本当に申し訳ありません。

河東村出身者様、ブログに年表が利用されていると知り嬉しかったです。
報告をしていただきありがとうございました。
井伊氏と新野氏との間に、菊川市嶺田と御前崎市新野の繋がりがある可能性のご指摘を興味深く感じました。

改めて返事が遅れてしまったこと申し訳ありませんでした。
 

井伊家と城東郡

 投稿者:河東村出身者  投稿日:2016年 7月 9日(土)09時27分41秒
  山紹様

膨大な資料を整理・公開いただき、ありがとうございます。

井伊家ブームでにわか歴史ファンになったものです。

下記情報等について引用させていただいております(事後で申し訳ありません)。

1.http://www.geocities.jp/senakamikutu/bg.htm


1500年3月12日 井伊伊賀守直勝、華厳院(掛川市上土方落合)に、両親華山英公・心月信公の菩提として、笠原庄峰田郷堀内(菊川市峰田)門田5段寄進。『静岡県史資料編⑦』




2.http://www.geocities.jp/senakamikutu/cb.htm

城東郡峰田郷地頭井伊千代寿・井伊弥八郎泰勝、実報院からの年貢寄進依頼に対し、「年寄」に先例を確認し、城東郡峰田郷(菊川市)の年貢寄進。『戦国史研究40』

ありがとうございました。

http://ameblo.jp/captain-kato/

 

今川氏真の近習について

 投稿者:sawamasa  投稿日:2016年 7月 8日(金)16時00分42秒
  今川氏真の近習であっち「沢木氏」について記載されている資料を探しています。
このサイトの年表によると、永禄12年12月に武田軍と戦った家臣の一人としてその名が記載されています。出典として「掛川の古城址」が挙げられていますが、ほかに資料はないでしょうか。
 

高天神記

 投稿者:山紹  投稿日:2014年 3月 8日(土)11時27分25秒
  tarouza様 早速のご連絡ありがとうございました

ご質問の「高天神城記」は、享保21年に本間清定が、天正11年に祖先が遺した覚書に基づいて記録した軍記本です。
ネットで見たところ、原本現代訳「遠州高天神城実戦記」が中古本で販売されているのを見かけました。
その他の高天神城に関する本は、静岡県の図書館にしか無いのではないでしょうか。

私は今まで岡部忠次郎を文字としてでしか関心を持っていなかったのですが、tarouza様のご連絡により、戦国の世に実在し今日に繋がっていることを感慨深く思っています。
 

忠次郎のこと

 投稿者:tarouza  投稿日:2014年 3月 3日(月)19時22分52秒
  山紹様 早速のご回答ありがとうございました。

忠次郎の討ち死の件は又私の宿題です。ご指摘の通り忠次郎生存は甲陽軍鑑の品第五十二「諏訪ノ原落城同小山後詰付武田贔負之衆被倒事」で確認いたしました。その死はその後の甲州攻めや親戚である元信の元に高天神城か天目山の随員の一人としてでしょうか。はたまた家督相続争いで身内同士骨肉の争いでとか、色々可能性を考えてしまいます。実は山紹さまの歴史年表での記述を見かけるまでは「信長公記」の長篠戦いの項で首実検の名簿に岡部(名字のみ)を見ていてこれが忠次郎のことかもと思っていましたが今回の事で一つのことが排除出来ました。又今回ご教授頂いた寛政重修諸家譜の件は大変参考になり感謝いたします。先祖附きや伝承の通り「嫡子」についての固定観念に風穴を開けて頂きました。
 嫡子が肉体的親子の定義では先祖附きに続く記載事項と矛盾するような年齢差があることを以前から感じておりましたが忠次郎が次郎右衛門の弟(5歳くらい年齢差)であれば先祖附と矛盾なく考えられます、さて嫡子ですが江戸時代にはよく親族の養子縁組で家督相続を紡いできておりますがこの時代一般的だったか門外漢の身にはわかりません。先祖附の嫡子記述も後代の先祖が我が家の正統性を主張するためであったとも思うようになりました。

 其子甚右衛門儀様子有甲州を立退・・・の甚右衛門は岡部図書と改名して織田信雄家臣として小牧表で細川家の侍と遣り合わせしたと細川家の歴史書「綿考輯録」にあり信雄から小﨑名を賜ったとあるのですがそんな人が次郎右衛門の孫で同じ小牧長久手に出陣時16歳長盛と先祖付の嫡子記述の甥と叔父関係とは理解に苦しむ所です。
 話が今川家筋と離れてしまいましたが「高天神城記」の翻刻資料もしくは写真など見ることが出来るのでしょうか。ネットでは分かりませんでした。やはりご当地の資料を当らなければならないのでしょうか。静岡は熊本からはやはり遠いですね、約400年かけて辿り着いた地なんですが。
 

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